林雅子賞

先輩たちの卒業制作発表展、林雅子賞公開選定会を聴講してきました。
今回林雅子賞に選ばれたのは徳江さんの「レクイエム」で、建築と時間をテーマに墓地をつくったものでした。
釘のように墓標を地面に刺していき、時間とともに密度を増す墓標は100年後には森のように神聖な祈りの空間になる。
時間という一定に流れていき物事を変化させる否応ない力、見えない概念をうまく建築という形に造形していた作品だと思う。
概視の時間の建築化という題材の作品は、他にフンデルトワッサーの建築表面を皮膚と捕えた「老いる皮膚」、2005年(?)に卒業設計日本一決定戦で第四位に輝いた戸井田さんの時間と記憶の詰まった地面に穴を掘る作品、を知っている。
宇宙エレベーターを研究するセルカン氏は、時間を四次元目だとも考えている。
その考え方が正しいとするのならば、既存の建築物は三次元のXYZ軸のみを意識するあまり四次元目を軽視していたことになる。建築において時間を考えることは、三次元の立方体と同等になくてはならないのだと思う。
そしてそのよく分からない「時間」という概念などをわたしたち三次元の世界に具現化する、そんな能力が建築にはあるのだと「レクイエム」は確信させてくれた。

時間とは何だろうか。
不動産である建築が唯一変動するもの、それが時間。あ、建築のなかの人間も動くか。
今日のプレゼンでも「建築は、人が入って初めて機能する、建築がある」といった話があった。
わたしたちすべてに対して第一人称である「人間」は、建築に対しても一人称であるしかないのだろうか。「動」物がいない建築とは一体何と呼べば良いのだろうか。
不動産における動とは絶対に一人称であるのだろうか。
動を取り除いて純粋に建築を不動産として見ることは可能なのだろうか。そうした時に建築とは一体何であるのだろうか。