Am I making art?

John Baldessari 「I Am Making Art」
http://www.youtube.com/watch?v=_oLIDt9BGhE

この作品を仮に芸術だとしたら、芸術とはいったい何であるのだろうか。アートという言葉が氾濫している現在は、まるでこのヴィデオのようだ。


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ヴィデオを待ちながら
映像、60年代から今日へ
Waiting for Video:
Works From the 1960s To Today
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Valie Export 「Facing a Family」
家族がテレビに夢中になっている様子を映し続ける。子供をないがしろにしながら瞬きもせずにテレビを見続ける両親がおかしく笑ってしまうが、その両親の状態がヴィデオを見る今の自分であることに気づき、居心地が悪くなってしまった。

Dennis Oppenheim 「2 Stage Transfer Drawing(Advancing to a Future Stage)」「Extended Expressions」
オッペンハイムと彼の息子が映し出される。息子は遺伝子を受け継いだ父の背中(彼の未来)に触れ、動く。

Richard Serra 「Color Aid」
大画面に映し出された色紙を引き抜く。ここまで大きなスケールで目の前の色が変わるという経験はあまりしたことがなく、色が引き抜かれるたびにビクッとしてしまう。はずかし…。目の前の景気が変わることがこんなにも驚くことだとは思わなかった。
このヴィデオの意図は色の残像効果で、いきなり色が変わったときに前の意識していた色を見続けてしまう、というもの。目の前の色を見ているようで実は前に見ていた色を見続けているのだ。

Bruce Nauman 「Bounding in the Corner No.1」
四角い部屋の角で跳ねる男性を、カメラを90度横にして撮る。背景は部屋という確固としたものに見えなくなる。角の直線が和らぐ。直線は横に引いたときと縦に引いたときで違うのか。

Bill Viola 「映り込む池」
池の中と外で別々の物事が動く。次々と変化する水面に注目していると、中に潜った人間が現れ、水面をヴィデオとして見ていたことに気がつく。

泉 太郎
ヴィデオと私たちの間に水の入った瓶、ガムテープの芯など、もうひとつを置く。ヴィデオを映し出す場所をいじることで見え方が変わる。とても分かりやすかったのは、同じ日本人的な見方を持っているからだろうか。


うーーーん、概念芸術はやっぱりわからない!そして映像作品は見るのに時間がかかるから疲れちゃう!2時間いたのに最後まで見れませんでした↓↓

いやされたぁ

ちょこっとだけ、模型のお手伝いに行ってきました◎


2、3ヶ月ぶりに行って、みんな「久しぶり〜」ってにこにこしてくれて嬉しかったです(^U^)


最初はこの事務所に対して、ええっ?て思っちゃうこといっぱいあったけど、
なぜか今では大好き(^u^)(笑)
みんな仕事に対してストイックでカッコイイ!


もしかしたら、一般的に見ておかしいことに対して違和感感じなくなってるのかもしれないです(笑)
うーんやばいやばい


きのうまでお金がなくて好きにできない現実にべこべこ凹んでたけど、平和におしゃべりして、すてきな建築模型つくって、いい仕事ぶりみて、自分のペースを取り戻せましたo(^-^)o


あせることはなーい
そんなにスサむことはないのだー


自分は自分、
他人は他人!


わたしもああになりたい!!

最近うれしいこと

1,
ずっと彼氏ができなくて「うわぁぁ〜」ってなってた友達に、2コ下の彼氏ができたこと。


2,
お母さんの論文が学術誌に載ったこと。
一生懸命英語やら統計学やら勉強してたの知ってるから、認められてうれしい!(o^-^o)
勉強ってやれば評価されるのね …by母はち


3,
まいっちゃってるって聞いてた知り合いが、元気だったことo(^-^)o
心配して連絡したら、喜んでくれたこと。


4,
知り合いがバイトから正社員になれたこと(`V`)
うれしいって言うより、ホッとした(笑)


5,
春がきたこと♪
雨が降るのは嫌だけどね〜。やっとコート脱げる!!(^3^)/


あ〜、ささやかだけど幸せだなぁ(o^-^o)*

フィンランド と 京都

内藤廣さんの講演会にいってきました。


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アアルトが教えてくれたもの
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フィンランドの建築家 故・アルヴァ・アアルト氏の作品から内藤氏が学んだ「フォルムとスペース」「内と外」について講演してくださいました。



今回は主に空間(スペース)について触れられていました。
空間とは人がいて感じ取って成り立つもの。
全く同じ材と設計図・温湿度・風でもその建築が建つ土地が違えばなにかが変わる。
それはその土地が持つ記憶があるから。もっと言えば、主体となって空間に存在する身体が抱え持つ記憶が違えば感じ方もそれぞれ変わる。
建築は身体に語りかけるツールで、空間をつくる要素なんだと思いました。



「見に行こうと思ってじゃなくて、何かを心の中に抱えて出会うことが大事だ」
質疑に対してそうもおっしゃっていました。そうすればきちんと呼応して心に響く、と。
見るべきだから、じゃなくて心が行きたいと思ったところに行こうと思えました。
なんだか焦りがとれた。



大学の指導方法についてもおかしいと思っているられるみたいです。
なんだ、みんなおかしいと感じてるじゃないか。
大学の進路って、一体誰が決めているんだろう。
大学で学ぶ意味が分からなくて勉強だと割り切っていたけれど、やっぱりほかの道があるんじゃないかと思いました。
でも、ほかの道てのが何なのか見当もつかないけれど。。。



建築は壁自体なのか、壁と壁との間にある空間なのか。
もし建築=空間なのだとしたら、わたしが大学で考えていることって見当違いなんじゃないだろうか。空間をきちんと見られる目を身に着ける勉強が本当に必要なんじゃないだろうか、ともやもやしています。
もやもや





京都のはなし。

この前京都に行ったらお土産に花粉症をもらってきました(・∀・)
清水寺に行ったらすぐ隣が杉山!!!
ありがたーい花粉がわさわさ
最終日は花粉症により発熱・頭痛でさんざんでした。
お参りは辛いほどご利益があるらしいのでヨシとします。

清水寺の坂を下って行ったところ。
椿の花が落ちてきれいな色合い。

いろいろみたけど、平等院鳳凰堂には驚きました。
その名前の通り、本当に鳳凰が翼を広げて飛んでいるようですね。瓦がたくさん乗った屋根なのに、すごくかろやか。

世界遺産 + 日本の遺産、おしゃれなおっちゃん。

鳳凰の翼・・・

池の色も素敵な色でした。
広島の海に浮かぶ神社(…名前なんだっけ笑)みたいなのをイメージしてたけど、イメージと違ってそれでもよかった!
他にはおじいちゃんおばあちゃん達と観光バスに乗ってお茶室・庭めぐりをしました。
茶室はまったく理解できなかったけれど、庭かわゆかった!

まだまだ学校始まるまであるし、どこか行こっかな〜♪

変身分子

宇宙エレベーター」タイムトラベルについてより、ハッとした一文。


例え死んだとしても、身体を構成する分子の世界線は書きかえられてく。

世界線とは、たての軸が時間、よこの軸が距離を表す図において、時間と空間の移動を描く直線のこと。
例えばベッドの上で1時間ごろごろしていたら世界線は距離軸から垂直に、過去から未来へのびる。


身体が死んでも分子は残っている。集約を解かれた分子は様々な形に変化を繰り返し、ほかの命を形作る。


命をつくるのかどうかは分からないけど、世界のものってくるくるまわっているんだな。
千の風になって」で小川とか風になってあなたのそばにいます、て歌詞があるけれど、本当にそうなんだね。
死んでも、その分子が形を変えるだけなんだ。
死なんて本当はないのかもしれない。
他のものに形を変えられるんなら悪くないかな。

林雅子賞

先輩たちの卒業制作発表展、林雅子賞公開選定会を聴講してきました。
今回林雅子賞に選ばれたのは徳江さんの「レクイエム」で、建築と時間をテーマに墓地をつくったものでした。
釘のように墓標を地面に刺していき、時間とともに密度を増す墓標は100年後には森のように神聖な祈りの空間になる。
時間という一定に流れていき物事を変化させる否応ない力、見えない概念をうまく建築という形に造形していた作品だと思う。
概視の時間の建築化という題材の作品は、他にフンデルトワッサーの建築表面を皮膚と捕えた「老いる皮膚」、2005年(?)に卒業設計日本一決定戦で第四位に輝いた戸井田さんの時間と記憶の詰まった地面に穴を掘る作品、を知っている。
宇宙エレベーターを研究するセルカン氏は、時間を四次元目だとも考えている。
その考え方が正しいとするのならば、既存の建築物は三次元のXYZ軸のみを意識するあまり四次元目を軽視していたことになる。建築において時間を考えることは、三次元の立方体と同等になくてはならないのだと思う。
そしてそのよく分からない「時間」という概念などをわたしたち三次元の世界に具現化する、そんな能力が建築にはあるのだと「レクイエム」は確信させてくれた。

時間とは何だろうか。
不動産である建築が唯一変動するもの、それが時間。あ、建築のなかの人間も動くか。
今日のプレゼンでも「建築は、人が入って初めて機能する、建築がある」といった話があった。
わたしたちすべてに対して第一人称である「人間」は、建築に対しても一人称であるしかないのだろうか。「動」物がいない建築とは一体何と呼べば良いのだろうか。
不動産における動とは絶対に一人称であるのだろうか。
動を取り除いて純粋に建築を不動産として見ることは可能なのだろうか。そうした時に建築とは一体何であるのだろうか。

表現

映像でしか伝えられないことがある。音楽でしか伝えられないことがある。
長ったらしい演説
写真
演劇
ダンス
スポーツ

彫り物

高校の頃 映像だとか音とかに少し取り組んで、伝えることの難しさを知った。表現のおもしろさも知った。
わたしたちは日本語を喋れるようになって、他言語もかじって、それでも伝えきれないもどかしさを抱えている。
口だけじゃなく 身体に力をこめて発信し続ける。


違う人間の中身は覗けない。
様々な人がいて、その身体には様々なものがぎゅっとつまっている。
ヒトの形に収まっている。


おもしろいってだけで 今まで何かをつくりあげた訳じゃないけど、なにかつくりたくてたまらない。
建築の表現だけじゃ、物足りない。
もっと面白いことがいっぱいあるのに!


つくりたいフラストレーションでイライラじゃ!
きのう小爆発を起こした…
翻訳が落ち着いたら爆発させるぞー!!!


そういやきのう雪のことを書いたら、今日地元で雪が降りました!
うきゃ−い♪